井沢弥惣兵衛 井沢弥惣兵衛為永
生誕と没年
 井沢弥惣兵衛為永は紀伊国那賀郡溝口みぞのくち村、現在の和歌山県海南市野上新に生まれした。井沢家は溝口村の豪農で、4代前までは根来寺に関係していたらしいが。生年ははっきりしない。その後の活躍のことを考えれば、やはり寛文3年生まれであろう。、『岩波日本史辞典』(1999)は「寛文3年、一説に承応3年」とある。
元文3年(1738年)3月1日、 85歳で没す。

幼少時の逸話
 幼少時の逸話として、「ある日8歳の弥惣兵衛は父につれられてお寺に出かけた。道が亀の川にさしかかったとき、父は弥惣兵衛に亀の川が毎年洪水を起こし村人たちが困っていることを話した。弥惣兵衛は急に歩くのをやめ、『こんなにまがりくねった流れでは洪水が起こるのはあたりまえです。川の流れをまっすぐにして海に流してしまったらどうでしょう。』と話した。そばにいた大人たちは感心してしまった。その後弥惣兵衛は言葉通り亀の川の流れを変える工事に成功した。」というのがある。(さいたま市立博物館「夏休み子ども博物館」(2004年)解説)もっとも海南市史によるとこの類の話は、後世の伝説という。

青年~壮年期 紀州時代
 元禄3年(1690)36歳に紀州2代藩主徳川光貞に召し出された。この元禄3年には野上八幡宮(海草郡野上町小畑)に手水鉢を寄進している。(「溝口村生 井沢宇左衛門尉氏勝 元禄三庚午年五月」とある。氏勝は為永のこと。 以後綱教、頼職よりもと、吉宗、宗直と5代の藩主に30年余仕え、藩の土木工事に携わった。
 紀州における最大の事業は亀池(名草郡坂井村、現海南市)の築造と新川の改修である。亀池はもと谷田池という小さな池であったが、亀ノ川の上流亀ノ欠から水を引き、池の北側に高さ16mの堤を築いて池の拡張を行った。この結果7000石を養う灌漑池になったという。現在も貯水量540万㎥で、多くの地を潤している。新川の改修は、蛇行しながら和歌浦に注いでいた亀ノ川を直線に改修し川の氾濫を防ごうとしたものである。その他藤崎井用水、小田井用水など多くの工事を行っているが、地元ではあまり評価されてこなかったようである。「江戸時代人づくり風土記30 和歌山」農山漁村文化協会(1995) には、地域に尽くした先駆者として「治水と農業振興に尽くした井沢弥惣兵衛と大畑才蔵」の項があるが、大部分を弥惣兵衛の配下にいた大畑才蔵に費やし、「紀州における弥惣兵衛の足跡は亀池築造しか知られていません。」とある。

井沢弥惣兵衛と紀州流の土木技術
亀池の築造

大畑才蔵は,1706(宝永3)年正月から,1年9か月をかけて,亀ノ川の蛇行した流路とは別に,布引村と毛見村(ともに和歌山市)の間をほぼ直線状に流れる新川に改修しました。その結果,下流域の低湿地の水田化や荒れた砂地と干拓地の開墾ができるようになりました。そこで,下流域の村々へ,安定した用水を確保するため,亀池を造る計画を立てました。那賀郡溝口村(海南市)出身で,紀州藩士の井沢弥惣そ兵べ衛え為永が指揮をとり,藩の直営工事として阪井村に大きな溜池を造りました。1710年に起工して,農閑期の3か月余の工事で竣工しました。池の水を利用する阪井村のほか10か村から人夫を出させて,村ごとに受け持ち工区を割り当て,それぞれの村の責任で工事をさせました。水源は,亀池の南方の山腹に降る雨水と,亀ノ川の上流辺から水路で集めて亀池へ注ぐ雨水です。亀池から流れる水を合わせて水量の増えた亀ノ川は,現在の海南市の阪井から旦来,多田た岡田と,和歌山市の仁井辺,小瀬田,薬勝寺,本もと渡わたり,内原,紀三井寺,毛見の11か村の水田をうるおしました。
井沢弥惣兵衛は,その後もすぐれた土木工事担当の役人として,徳川光みつ貞さだ,綱教,頼より職
もと,吉よし宗むね,宗むね直なおの五代の藩主に仕え,30年余り紀州藩内各地の治ち水すいや灌かん漑がい用水の工事にたずさわりました。井沢が,伊い都と郡代官所の郡ぐん方がた役人時代の1696(元禄9)年3月,学かむろ文路村むらの大畑才蔵に出会い,藩の役人に召めし抱かかえたことが,紀州の土木技術をさらに向上させることになりました。

壮年期~老年 吉将軍吉宗に召し出されて以降
 吉宗は享保元年(1716)8代将軍に就任すると、享保7年(1722)7月に江戸日本橋に高札を立て新田開発を奨励した。その2ヶ月後、弥惣兵衛は吉宗に召し出され、享保8年(1723)7月18日69歳御勘定に就任しました。徳川実紀には、「新田の開墾、河渠の浚利など、年ごろ熟せしきこえあるをもてなり」とある。紀州において発揮した力量をかったためであろう。弥惣兵衛55歳、当時としては隠居してもいい歳であった。
 弥惣兵衛は享保10年(1725)勘定吟味役格となり、享保12年(1727)には新田開発はすべて弥惣兵衛の所管とされた。享保16年(1731)勘定吟味役本役、さらに享保20年(1735)には美濃郡代を兼務するなど取り立てられていった。
弥惣兵衛の業績で最大のものは、享保10年(1725)71歳の下総国飯沼新田開発と享保13年(1728)の武蔵国見沼代用水開削・見沼新田開発であろう。
総国飯沼新田開発
 飯沼はもと下総国猿島、結城、岡田の3郡にまたがる南北約20km、東西約1.5kmの細長い沼であった。江戸日本橋に掲げられた新田開発奨励の高札を知り、享保7年(1722)7月尾崎村名主秋葉佐平太が中心となって飯沼周辺20ヶ村による新田開発の願書が出された。同年8~9月弥惣兵衛検分、同9年(1724)5月に新田開発の許可がでた。同10年(1725)1月着手。飯沼の水を利根川に落とし(飯沼川)、下野国河内郡下吉田村(現栃木県南河内町)から用水を引き(吉田用水)新田開発を行った。同年10月ほぼ完成。これによって生じた新田1525町歩余、石高1万4383石余であった。ほぼ現在の茨城県猿島郡三和町、猿島町、結城郡八千代町、石下町、岩井市、水海道市にまたがる地であった。

武蔵国見沼代用水開削・見沼新田開発
 見沼は、もと武蔵国足立郡、現在のさいたま市の東部にあった、Yの字のような平面形をした低湿地であった。Y字形の左側(西側)の低地の中央には芝川が流れていた。寛永6年(1629)、関東郡代伊奈半十郎忠治はY字形の南側の部分に堤を築き(八丁堤)、芝川を堰き止めた。ここに見沼溜井といわれた周囲40数kmに及ぶ大きなY字形の沼が出現した。(見沼はもとは三つの沼、三沼であったともいわれている) この見沼溜井は南側221ヶ村の潅漑用水源となった。一方台地周辺にすでに開かれていた水田は水没(この水没を地元では「水いかり」と呼んだ)、わが大和田村は88石5斗2升1合、村高の実に35.4%を失った。なお、領主の伊達氏は代替地として大竹村(現川口市)に欠損分だけ交付をうけている。
 弥惣兵衛はこの見沼溜井の干拓にのりだした。干拓地と溜井の水を利用していた村々の水を確保するために新たに用水路の開発を計画した。享保12年(1727)8月工事開始。利根川右岸の下中条村(現行田市)で取水(元圦もといり)、用水路は途中の荒木村小見おみ(現行田市)で星川に合流させて星川の流路を利用、さらに下流の大山村上大崎(現菖蒲町)で星川と分離、星川側に十六間堰、用水路側に八間堰を作り水量を調節、さらにの柴山村(現白岡町)で元荒川と交差するが元荒川の下をサイフォン式にくぐり(伏ふせ越こし)、ついで瓦葺かわらぶき村(現上尾市)で交差する綾瀬川は掛かけ渡井といをかけて通し(現在は伏越)、そこで西側の台地の端を掘削した西縁にしべりと東側の台地の端を掘削した東縁ひがしべりの2つの用水路に分流してそれぞれ浦和・川口方面にと全長60kmに及ぶ用水路を作り上げた。見沼の代わりなので見沼代用水とよばれた。着工後6ヶ月という短期間で完成させた。
       利根大堰取水口
      星川(左)と合流
  十六間堰・八間堰 星川(左)と分流
      元荒川の下を潜る  
        柴山伏越  
      綾瀬川の下を潜る
        瓦葺伏越 
     瓦葺で東縁・西縁用水に分流
    各地で分水(砂村分水取水口)
      高沼用水取水口
        高沼用水路
一方見沼溜井は八丁堤を切って溜水を放流、中央に排水路(見沼中なか悪水路)をつくり、芝川につなげた。こうして1228町5反歩の通称見沼田圃たんぼができあがった。なお、見沼開発は17ヶ村の村請で行われたが、どういうわけか大和田村は参加していない。そのため大和田村のすぐ下の見沼田圃は対岸の土呂とろ村の領地になってしまった。
 享保16年(1731)には見沼代用水路の有効利用ということもあって、代用水路縁辺の村々から芝川・荒川を通って江戸の河岸に至る通船を計画。弥惣兵衛は用水路と芝川が最も接近している八丁堤の近くに通船掘を作った。用水路と芝川では水面の高低差が約3mあるので、西縁、東縁と芝川の間にそれぞれ2ヶ所の閘門を設け、3段の水面の調節によって船を通すようになっている。パナマ運河より183年早く同じ原理の閘門(こうもん)式運河を完成させたのである。この見沼通船は昭和6年まで利用された。
      
           見沼通船堀               通船堀復元閘門
 弥惣兵衛はその他下総国手賀沼の開墾、常陸国山田沼開墾、越後国紫雲寺潟・福島潟の干拓、下野国江連用水、鬼怒川改修、多摩川改修、酒匂川改修、中川の改修、大井川の改修等各地で活躍している。
 享保20年(1735)、弥惣兵衛73歳の時、息子楠之丞正房が召し出され、父の職事の補佐を命じられた。弥惣兵衛の後継者となるよう期待されてのことだろう。
 元文2年(1737)9月弥惣兵衛は病のため美濃郡代を解任され、同年12月には勘定吟味役も免ぜられ寄合となった。
 元文3年(1738)1月、弥惣兵衛は郷里の野上八幡宮に4石1升3合の田地を寄進、毎年1月19日に神前での心経読誦を依頼している。弥惣兵衛は神仏への崇敬の念が厚かった。次のような逸話が残っている。「ある日のこと、自分の屋敷からあたりのけしきを見わたしていたら、かすみの中に氏神様の野上八幡宮と法然寺が見えた。ハッと気がついた。八幡宮や法然寺と自分の屋敷が同じ高さだ。これではあまりにもったいないことだ。弥惣兵衛は自分の屋敷を一段と低い低地に移した。」(さいたま市立博物館「夏休み子ども博物館」(2004年)解説)。
 同年3月1日没、行年76歳。江戸四谷(現千代田区麹町6丁目)心法寺に葬られた。法名「崇岳院殿隆譽賢巌英翁居士」
         四谷・心法寺為永墓          
 一説には暗殺説もある。(海南市史) かつては伊奈氏が幕府の新田開発・河川改修を独占していた。これは関東流といわれる工法で、中小河川などを堰き止めて溜井に貯留、これを下流部の田の用水に用い、この排水をさらに下流部の溜井に貯留して利用するという方法である。この工法によって近世初頭から約100年間著しく耕地は増加したが、吉宗が登場した頃にはこの手法による新田開発はほぼし尽くされ、行き詰まっていた。一方井沢弥惣兵衛が行った工法は紀州流と呼ばれる用排水分離方式である。かなり遠くに水源を求めて長い用水路を作り、途中の村々にも給水しながら溜井や沼の干拓地に水を引き、排水は別に排水路を作り直線で大きな川に落とすというものである。新しく台頭した紀州流の技術者と職を失った関東流の技術者の間に確執があったというのである。
 弥惣兵衛の子正房はどうなったか。正房は元文3年(1738)に弥惣兵衛が亡くなるとその後を継ぎ諸国の工事に従事、延享4年(1747)2月勘定吟味役に昇進。
 ところが三河国吉田橋架橋工事(現豊橋市)に不備があったとして宝暦3年(1753)2月に役を停止させられ、小普請組(無役)にさげられた。明和2年(1765)8月不遇のうちに病没した。51歳であった。
 3代以降は書院番等に列せられたのみで、為永や正房の技術を継ぐものはいなかった。
 見沼周辺では井沢弥惣兵衛為永の功績を称えるものが多く、早くも元文3年(1738)、後じきに下中条の元圦のところに弥惣兵衛を祀る「井沢祠」が作られ、文政12年(1829)に再建されている。柴山伏越のところには明和4年(1767)に墓石が建立され、見沼干拓の事務所が置かれたといわれる片柳村(現さいたま市)の萬年寺には文化14年(1817)に顕彰碑が建てられた。さらに、平成17年(2005)には、さいたま市緑区の見沼自然公園に、銅像が建立された。
         
            利根大堰・元圦公園 「井澤祠」
      
     白岡町柴山・常福寺分骨
      
        萬年寺・顕彰碑
          
                見沼自然公園・銅像
 200数十年後、高度経済成長にともなう首都圏の水不足解消のため利根川上流にダムを建設、利根川から荒川に導水し、荒川から都市用水を取水する計画が立てられた。利根川から取水する場所を選定した時、まさに見沼代用水の取水場である元圦が最適とされ、そこに利根大堰を作り取水、武蔵水路で荒川に導水、秋ケ瀬取水堰(さいたま市)から取水し東京に送られるようになった。昭和39年のことである。現在は見沼代用水西縁を三面舗装して漏水を防ぎ、天沼(さいたま市)からも荒川に導水されている。
      
      天沼取水口(中央左)           天沼ポンプ場
 見沼田圃は、米の生産調整による畑作転換事業の結果、米作は10%程度になってしまった。見沼代用水は台地の端にあり、田はそれより下にあるのだから水門をあければいくらでも水は供給されるのに残念なことである。しかし、見沼田圃は開発が規制され、東京近郊に残る一大緑地として新たに整備されつつある。また、さいたま市は政令指定都市化によって区制を敷き、大和田周辺は見沼区となった。すくなくとも大和田周辺では、弥惣兵衛の名は永く記憶され続けるであろう。
       見沼代用水西縁            見沼田圃の現状
               芝川(見沼中悪水)

 参考にした主な文献(それぞれから多数引用させていただいた。)
1『海南市史』第2巻各説編(海南市 平成2年11月30日)第3章海南 に関する個別研究 第6節井沢弥惣兵衛とその業績(小橋英世氏執筆)
 『海南市史』第4巻資料編Ⅱ(近世)(海南市 平成9年6月30日)「 井沢弥惣兵衛為永寄進状」(野上八幡神社所蔵)の解読筆写文が載せられ
 ている。
2『見沼土地改良区史』(見沼土地改良区 昭和63年3月31日)別編  第2章人物 第1節井沢弥惣兵衛為永 (吉本富男氏執筆)
3『見沼・その歴史と文化』(浦和市郷土博物館 平成12年10月15日 改訂版)Ⅳ見沼干拓と見沼代用水路-新田開発と見沼代用水路、井沢弥惣 兵衛為永(井沢弥惣兵衛為永年譜掲載)(野尻靖・高橋淳子氏執筆)
4秋葉一男『吉宗の時代と埼玉』(さきたま出版会 平成7年5月20日)
5『海南市立歴史民俗資料館展示解説集 第14集 井沢弥惣兵衛-吉宗を 支えたその心と技術-』(海南市立歴史民俗資料館 平成7年10月1日)